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「原敬」暗殺の黒幕には、大本教が潜んでいる可能性。

1921年11月4日、当時の内閣総理大臣であった「原敬」が暗殺される事件が起きました。現場は、東京駅の構内であり、後の、丸の内南口改札、切符の券売機のすぐそばで、現場となった地点の床に丸い印が残されています。

 画像お借り先 http://aruku.hekichi.com/history/tokyo_station_1_1.html

原敬の暗殺について調べると、大本教に関わる事柄が出てきます。原敬と大本教の関係を見ると、両者は敵対していたことから、大本教が彼の暗殺に関わっていた可能性があると考えられます。

原敬を暗殺をした犯人は、「中岡艮一」と言う人物でした。

中岡艮一 (画像はWikipdediaより)

原敬と中岡艮一

大本に第一次弾圧を加えた内閣の首班原 敬は、

本宮山神殿を毀し終わって8日目(大正10年11月4日)、

東京駅頭で珍しい(うしとら)の一字を名に持つ青年中岡 一(こんいち)の為に刺殺された。

(原が育った本宮地区にある本宮小学校)

 https://ameblo.jp/motoharu567/entry-12699227962.html

 大本教の開祖・出口ナオに降りてきたと言われる霊が「の金神」であり、の字は、大本教ではおそらく重んじられていたと考えられます。

中岡艮一の字にも、この艮の字が含まれています。

また、事件当時、大本教の教主であった「出口王仁三郎」は、原敬が暗殺されることを予言していました。

出口王仁三郎は、卓越した霊能者であり、様々な予知や予言を的中させている。日本の軍人にも多くの信奉者がいた。
□ 原敬首相が暗殺される2時間前に、「あ、原敬がやられた!」「東京駅で暴漢に襲われおった」

http://j-holistic.org/jhca/html/jhca10-4k36.html

この出口王仁三郎の予言は、単に彼の霊能力だけによって予言をしたという訳ではなく、もともと原敬を暗殺する計画があり、その計画に沿って予告を出した、と考えられます。

大本教は、予言と称して、計画を予告する手口を使っていたことがRAPT理論を通して暴かれています。

人工地震3.11を引き起こした真犯人は、国常立尊とスサノオを神と崇める「出雲族」だった可能性大。

原敬内閣の時に、大本事件があり、原敬は自身の日記で、大本教の布教方法と教勢について批判していたようです。

日本政府は陸・海軍の幹部軍人が多数入信したことで、大本に警戒感を抱いた[17]
そもそも大本は国常立尊という天照大神より上位の神を重要視しており、現人神たる天皇の宗教的権威及び統治権の根拠を脅かしかねなかったのである[18]
内務省は1920年8月に教典『大本神諭・火の巻』を不敬と過激思想を理由に発禁処分とした[19]。京都府警も王仁三郎を呼び出して予言をしないよう警告[20]
9月には開祖・出口なおの奥都城を「天皇陵に似ている」と理由づけ墓地取締規則違反として罰金と改修を命じた[21]原敬総理大臣は同年10月9日と14日の日記で大本の布教方法と教勢について批判した[22]
大本の急成長と影響力は、天皇制国家にとってもはや無視できない存在だったのである[23]

https://ja.wikipedia.org/wiki/大本事件#第一次大本事件

原敬内閣の時に、大本教を弾圧する大本事件が起きるなど、大本教にとって不利な国勢にあったと考えられます。

 

また、犯人の中岡艮一は、無期懲役のはずが、13年間で出所でし、後になって、満州で目撃されたと言われています。

 不可解なのが、犯人の中岡良一のその後です

無期懲役のはずだったが、3回の恩赦(皇太子御成婚、大正天皇の御大喪、昭和天皇の即位)のため、昭和9年1月31日に、僅か13年間で出所しています

出所後の2年間を岡山県で過ごしてから、上京して右翼の頭領である頭山満を頼っています

その後、当時の満州で目撃されています

そして、敗戦後に引き上げてきたという噂を聞いた人がいます

この時に送られた手紙の中岡の住所は、「哈爾濱南崗 第四軍管区司令部 中岡艮一」となっています

使用された便箋は、「第四軍管区司令部公用箋」と上部に印刷したものが使用されています 首相を暗殺した犯人が、どうして軍隊の司令部にいることができたのであろうか?

原敬暗殺事件の裏側は、いろいろあるみたいです

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12127508942

出口王仁三郎が満州建国の黒幕と言われています。

RAPT×読者対談〈第89弾〉ニューエイジと満州と大本教と蝦夷共和国。背後にいるのは同じ一族。

中岡艮一は、出口王仁三郎(大本教)の図らいによって、出所後に満州に行き、満州での軍監司令部にいることができた、とも考えられます。

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