世田谷線が廃線されず残った理由について。
東急世田谷線は、元は玉川電気鉄道という会社の路線でした。
玉川電気鉄道(玉電)の路線に、三軒茶屋と下高井戸を結ぶ「下高井戸線」という路線がありました。東急が玉電を買収したことで、「下高井戸線」は東急の路線となりました。1969年、玉電が廃線になった際に「下高井戸線」だけは廃線せず残ることとなり、名前も東急「世田谷線」という名前に変わった経緯があるようです。
前回の記事の内容にもなりますが、東急玉川線(渋谷から二子玉川)と砧線(二子玉川から砧本村)は1969年に廃線となった際、代わりにバスを走らせることになりました。
玉川線(渋谷から二子玉川)もバス転換されました。
その後1977年に、新玉川線が開通し、二子玉川から渋谷の間を走っていたかつての玉川線は、地下線として生まれ変わりました。
砧線については鉄道が新たに敷かれることは現在(2023年)までなく、バス転換されてから路線バスのまま受け継がれて残っています。(運行系統は玉06)
唯一、世田谷線が廃線とならなかった理由は、世田谷線を走る区間には、当時、代替バスを走らせる平行道路がなく、代替バスを走らせることができなかったという背景があったようです。
そして、ついに昭和44年、専用軌道であり、代替バスを運行できる平行道路がなく、廃止を免れた三軒茶屋~下高井戸間を除いて、道路の上を走る渋谷~二子玉川園間の玉川線と砧線全線が廃止となり、国道246号線上を走る路面電車が姿を消しました。廃止となる最後の3日間には、「さようなら玉電」と書かれた花電車が運行され、玉電の沿道には、別れを惜しみやってきた沢山の人々で人垣ができたと言います。
玉電の歴史~開通から玉川線廃止まで~
残された三軒茶屋~下高井戸間は、世田谷線と名前を変え、車両の色も今までのクリームと緑のツートンから緑一色とし、車庫を大橋から上町へと移し、新たなスタートを切りました。
東急多摩川線の二子玉川から渋谷の区間は、その殆どが道路上を走っていたため、バス転換しやすかったということがあったと考えられます。玉電が走っていた道路にそのまま路線バスを通すことができたと考えられるからです。
一方、下高井戸線(世田谷線)は、専用軌道を通っていて、尚且つ、代行バスを走らせられるような道路が並走していなかったため、廃線にしたら、交通の足を失った沿線住民から相当の苦情が出ていたでしょう。
また下高井戸線は、複線でもあり、それなりに運行本数も多く、利用者もそれなりにいたことが考えられます。
利用者の多い路線をバス転換するとなると、それなりの本数のバスを走らせる必要性も出てきます。広い道路がなくバスの本数も確保できないとると、なおさらバス転換は難しかったのかもしれません。
1960年代の上空写真を見ると、すでに下高井戸線の沿線には住宅が立ち並んでいるのが見れます。
1960年代、既に住宅が密集していたため、このことからも下高井戸線の利用者がそれなりに多かったことが考えられます。
世田谷線(旧・下高井戸線)が廃線にならなかった理由は、大まかに
・代替バスを走らせる道路がなかった
・専用軌道だったため鉄道のまま残しても道路交通の妨げになることが無かった
というのが考えられます。