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2019年11月11日の祝祭の日に関する証。

過去の事で引っかかっていた事がありiPhoneのメモアプリを見返していると、2019年の祝祭の日の証が下書きの状態である事に気づきました。

2019年の祝祭の日の前日については、writening.netで書いたものを以前ツイッターでアップさせて頂いたのですが、祝祭の日当日の出来事については下書きの状態のままであったたのです。

今年2020年の祝祭の日を迎えて、私は神様から頂いた恵みを証することが出来ていない事がわかりました。

それによって2020年の祝祭の日は、それまでの年と比べて受けられる恵みが少なく、証をせずにいる事が、私にとって足りない事である事が分かりました。

私の足りない部分について祈り求めた時に、答えを与えて下さる神様に感謝いたします。

神様について証をしたら、「自分が疑われるかもしれない。」という人目を気にする思いがまだあり、それ故に臆病になり恵深い体験をしても、それを証しないままの事があり、それゆえに神様の恵みを地に落とすような事をしています。

臆病になって神様の恵みをひた隠しにし続けることは、罪をおかし続けることにもなります。

自分はダメだからと、自分で自分を勝手に判断して自分を裁く事も罪であり、罪の連鎖を断ち切ろうと神様に祈り求めて、罪を悔い改めて、実際に罪を克服しようと行動しなくなるなら、神様は私に何かしてあげる気も無くなってしまうでしょう。

私が証をして例え、工作員と疑われるような事があっても、こまごまと書いているを見て「えー」と思われる事があっても、今回の投稿を通して人々の救いに繋がる助けとなるように祈り、その後の結果を神様に委ねます。

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11月11日祝祭の日の体験

2019年の、祝祭の日の出来事について書かせて頂きます。

まだまだ文章能力も追いつかず、消化しきれない事があり、かといって焦った状態で書いて御言葉の価値を下げるような証を書く訳に行かないと思い、また良く見せようとして不正直に嘘偽りを書く訳にもいきません。

これで大丈夫だろうか、と何度も見直していたら中々進みまずに、苦労する事もありますが人からどう思われるかを気にして証をしないのもまた罪だと御言葉で出ています。

神様は11月11日を人間と神様の出会いを祝う特別な日と定めて下さいました。

RAPT有料記事224(2017年11月13日)11月11日は主と私たちが互いの愛を確認し合い、互いの愛を深め合う日だ。〈主の祝祭の日についての御言葉〉

RAPT有料記事326(2018年11月10日)主が示される真の成功哲学。または、11月11日の主の祝祭についての御言葉。

見えない神様が祝祭の日と定めてくれたと初めて聞くと、どんな事になるか想像がつかないかもしれません。

11月11日は、本当に他の日と違い、特別な恵みを感じる一日となりました。

この祝祭の日は、神様を知らず、神様を正しく信じていなかった時には、経験した事もないような日になります。

ストレスが当たり前のご時世です。ストレスに苦しんでいる人達がいると思うので、そういった方がストレス社会のジレンマから抜け出せるきっかけになればとも思います。

私が初めて祝祭の日を体験したのは2017年11月11日で、この日はとても恵み深い体験をしました。

車で温泉施設に行ったのですが、普段なら、変な運転をする車(急に交差点に飛び出してきたり、後方からのあおり運転など)に遭遇すると多少イライラしたり、嫌な気持ちになる事もあります。

しかしこの日は、変な運転をするクルマに遭遇しても怒りに駆られる事もなく、それに対してイライラが続く事もありませんでした。

むしろ恵みの方が強く、イライラに気を取られる事もなく、軽やかな気持ちで賛美歌を歌いながら運転していました。

その翌年、2018年11月11日も、とても恵み深い一日で、この日は福島県の只見へ旅行に行きました。

一応、只見に行った模様は電車の内容ですが過去ブログ記事に掲載しております。

本当に明け方から感じる事感じる事のひとつひとつが恵み深く、前日に郡山に宿泊しており郡山からのスタートだったのですが、同じ郡山にいても前日とは全く違い、街を歩くだけでも感謝が溢れて来るような感覚でした。

神様が恵みを下さり、心に愛を注いでくださっていると感じ、頭の中で良い事が思い浮かぶだけでなく、それは身体全体を包むような感覚でした。

本当に不思議な事です。

・前々日 11月9日

さて、2019年も11月11日が近づいてきた頃です。

その2日前に、私は風邪を引いてしまいました。

もしかしたら風邪を引いたまま祝祭の日を迎える事になり、一昨年、昨年のような恵み深い一日を迎えられないかもしれない、と不安な思いがよぎりました。

また自分が神様から裁かれたのかもしれない、とも考えました。

御言葉と照らし合わせても足りてない部分がたくさん思い浮かびます。証もキチンと書き続けられず、情報拡散のペースも落ちてしまい、個性才能を伸ばす事もまだ妥協点が見られるたり、とです。

そして、この日はバイトの出勤日だったので、ゆっくり休む事も出来ません。

この日の御言葉で神様に意識を向けることについて話されていました。

自分が主のことを気にかけているときだけ、主も自分のことを気にかけて下さる。だから、一日のうち多くの時間、主のことを気にかけている人は、祈るときにも主と深く疎通することができるし、その祈りも強力に叶えられる。

風邪を引いた11月9日は、力が入らず神様を呼び求めないと、仕事をこなせないくらいの体調でした。

バイトの仕事に慣れていない頃は、神様に助けて欲しいという思いが強く、神様に意識を向ける事も多かったです。

しかし、仕事に慣れて来ると神様に意識を向ける頻度が減っていました。

11月9日のバイト中は風邪で辛かったので、どちらかと言うと、神様に意識を向けざるおえない状況でした。

もう怒られてもいいやと言う思いで、煩雑な仕事に意識を取られるより、出来る限り神様に意識を向ける事を優先し、仕事に当たりました。

(不思議な事ですが、仕事の忙しさに追われてるような状態でも、意識を神様に向けた方が、仕事がスムーズに進み、身体がスムーズに動くと言った経験を何度もしています。)

この日は無事にバイトを終えることができました。

ただ、まだ安心も出来ず、翌日もバイトがあったため、風邪を引きずらないように何とか治って欲しいという思いがありました。

・前日 11月10日

そこで、前日の御言葉でも出ていたように、明け方の時間はいつも以上に神様に意識を向け続けるように努めました。

他の事に気が取られないように、神様に集中するように努めました。

いつも自分が限界だと思っている点以上に集中しようと努めました。

そのような状態を維持するように努めて祈っていると、不思議と風邪の時にある頭がクラクラする感覚が晴れていき、次第に身体に温かさを感じるようになりました。

でも油断しているとまた風邪をぶり返す事になりかねません。

引き続き神様に集中するように努め、朝を迎えました。

明け方の祈りの後に就寝して、昼起きてからも御言葉を思い出しながら、出来るだけ神様から意識が離れないように努めていると、昼過ぎには風邪が完全に治っていました。

せっかく、このような事があったのに神様に意識を向ける事をやめてはいけません。

御言葉通りに出来るように、風邪が治ってからも神様に意識を向けるように努めていました。

風邪が治ったから恵み深いのかなと思ってましたが、11月10日が恵み深いと感じたのには理由があり、御言葉を聞く事で分かりました。

https://rapt-neo.com/?page_id=51870

神様は前日の11月10日にも、11月11日のような恵みを与えて下さったのです。

この日のバイトは、(因みに飲食店です)調理仕事のためにバリバリ身体が動いたという訳ではなかったのですが、オーダー読み上げで声を出す時もなぜか楽しく、歌うような感覚で声を出していました。

普段は、仕事に追われるあわただしい職場なのですが、この日は終始、和やかな気持ちで仕事が出来ました。

(私が飲食店でバイトをしている理由に、シフトの時間に融通が利き、明け方の祈りを守りやすいというのもありますが、それともう一つ、自分が「もしかしたら料理の才能があるかもしれない」と考えていた事もあります。
一人暮らしをしていた時、自炊しながらあれこれ創作料理を作っていた経験があったためです。
ところが、祝祭の日前日の経験から、私はバリバリ料理を作るより、和やかに周りに働きかける方が向いているのではと考えるようになりました。)

自分の手を動かすのが早かったとは言えませんが、不思議と夜は混まずに、この日の閉店作業はいつもより早く終える事ができたのです。

また、一緒に仕事に入っていた中国人の子は、お世辞にも仕事が早いとは言えず、その子と閉店作業をすると大抵遅くなってしまうのですが、この日は要領よく進み、早めに閉店作業が終わったのです。

・祝祭の日 11月11日

家に帰り、まだとっていなかった食事をとりました。

この時に食べた食事はとても美味しく、インゲンなどが甘く感じ、チキンも肉の甘みを感じ、食事が全て味わい深かったです。

食事を取っている間に明け方の1時を過ぎてしまい自分のやっている事に咎めは感じました。

(バイトが夜遅くまでの日は明け方に食い込んでしまう事があり、いま書いていながら、この生活リズムは変えていかなければと再確認しました。)

こんな自分にも、今年祝福を下さった神様の憐れみ深さと恵みに感謝の念が溢れてきました。

明け方の祈りの時間、祝祭の日にどこへ行くのが良いか祈りました。

候補は2つに絞っていたのですが、福島に行くか、東京に行くかまだ決められていませんでした。

地図を見ながら、めっきり行く機会が減っていた東京に行く事にしました。

いろいろな事を悟れますようにと祈りました。

(東京に行く事を考えた背景に、自分の心の奥には都会から遠ざかりたくないという考えがありました。東京なら自分が学生の頃から通った場所なので、自分の持っている親しみから、そこで御心を成せるならそのほうが楽だという考えが残っていました。神様の御心をなす上で、もし東温に行くことになったら都会での生活は捨てることになるので、そうなった時を考えた時に、自分が神様のために捨てたくないものをまだ握っている事が心の底にある事がわかりました。)

行き先を決める時も、つい調べ物などをしながらあれこれと迷ってしまい、明け方の時間を祈りに集中しきれない事が分かりました。

この祝祭の日は、神様がサタンの攻撃から守ってくださる日です。

この結果を見て、私はサタンに誘惑されずとも、まだまだ世の中的な考えに流されやすい事が分かりました。

・11月11日に撒かれたであろうケムトレイル

因みに前日から朝にかけて、かなりの飛行機が飛んでいました。

2019年は(特に夏)、首都圏でさんざん飛行機が飛び交い、その後、雨が降り続けるという日が続きました。

ケムトレイルで雨を降らす事が出来る事はRAPTブログで証明されています。

ケムトレイルも天皇家一族のボロ儲けの種。この世の陰謀論は、天皇家一族の悪事を隠すための情報撹乱である。

11月11日にケムトレイルを撒いて雨を降らす計画があるのだろうか、とも考えました。

ところが、祝祭の日は、かなりの飛行機が飛んでいたにもかかわらず、降雨量は少なく、夕方の短い時間に雨が少し降ったくらいで済みました。

・祝祭の日に出かけて

外を歩いてみると、祝祭の日はいつもの日とは違いました。

木になっている柿を見ても嬉しく感じ、

花壇に咲いている花を見ても綺麗に見え、

風が吹いても心地よく感じました。

神様は天地創造された時、それは「はなはだ良かった」と聖書に書かれている事を思い出しました。

また、バスのエンジン音がとても力強く聞こえました。

日没まで時間があったのでお台場に寄って、お台場海浜公園で賛美をする事にしました。

お台場まで、ゆりかもめに乗って行ったのですが、ゆりかもめの展望席に乗る感動がふと来て、混んでいる電車を一本見送り、次の電車に乗って展望席に座りました。

いつもなら猪突猛進に、来た電車に乗り込んでしまうところですが、とっさに機転が利き、その機転通りに動く心の余裕が生ました。

お台場海浜公園に着いた頃に雨が降って来ました。

先程申し上げたように、公園で賛美をしようと思っていたので、そのタイミングで雨が降ったので「もしかしたら自分は裁かれているのかもしれない」とも考えました。

ところが、雨のために、ちょうど公園にいた人達が帰ってくところで、公園が空き。その結果、周りを気にせず賛美する事が出来ました。

(あまり人目を気にするなら、なぜ都会にいったのかと自分につっこみを入れたくなる気持ちも出ました。

神様が酌量して、人目を気にしなくて済む環境になるようにと計らってくださったのかもしれません。)

やはり都会は雑多なので、そちらに気がとられると、その分神様を感じにくいという事を経験しました。

[※東京を聖地にすると神様が定められたため、2020年から、そのような事も少なくなり、むしろ東京では神様を感じやすくなっているかもしれません。(RAPTさんのInstagramより)]

祝祭の日だっため、神様に意識を向けやすいのですが、私は人前では内向きになりすぎてしまう事も分かりました。

夜景が見えるところを探しており、ふと東京タワーが思い浮かびました。

ただ東京タワーはイルミナティが建てたであろう場所で、イルミナティ色が強く、祝祭の日にそのような場所に行っていいかだろうかと思いました。

その事について祈っていると、特に止められているような感じもしなく、東京タワーへ行く段取りを組みました。

・いつも神様を見ている人は心が揺るがない。

移動の為に再度ゆりかもめに乗り、その車内で見回していたら鋭い目つきの外人さんと目があって一瞬’しまった’と思いましたが、神様に意識を向ける事をすぐに思い出して神様に意識を向けたら、心が落ち着き、その後そわそわとする事もなく、心を平安に、次の行き先の東京タワーについて調べ、スムーズに展望デッキの予約を取ることをゆりかもめ車内で出来ました。

東京タワーに着く頃には、雨もやみ雲も晴れていました。

展望デッキに登り、夜景の写真を撮影したりました。道路の車が流れ続けているのを見て、これで幹線道路を大動脈と例えるのだろうなと思ったりもしました。

東京タワーの展望デッキは案内が少し分かりにくく、出口を探すためにしばらくウロウロしてしまいました。中々出口がみつからないのでスタッフに尋ねて場所まで案内してもらうと、何人かがついて来て、意外と出口を探していた人はいたんだなと思いました。

東京タワーもあまりサービスが良くない部分があるのですが、祝祭の日はそういった事にイライラを募らせることもなく、心落ち着かせて館内を回る事ができました。

東京タワー→品川→大井町と経由して、帰ることにし、品川で食事を取る事にしました。

どの店がいいかと迷いましたが、ラーメン屋に入る事にしました。

都会は、選択肢が多いので、意思決定がはっきりしないと迷いが生じます。ただ、それによって色々と考える力も養われるのかもしれません。

具材の揃ったラーメンに餃子と、普段安いメニューを選んでしまう私にしては奮発しました。

心の中で神様へ感謝をしながら食べました。

ラーメンのスープが少し酸っぱくて感じましたが、チャーシーと煮卵と玉ねぎの具材がとても美味しく味わい深かったです。

美味しくないものは、あまり美味しくないと正直に感じました。

生長の家などは、美味しく無いものも無理やり美味しいと言わされるのかな。と考えたりもしました。

隣の大井町駅に向かい、その周辺で広場を見つけたので、そこで賛美歌を歌いました。

その後、駅に向かうと、何やら消防車がサイレンを鳴らして次々と走ってきました。かなり物々しく

ギョッとして、不安な考えがよぎりました。

神様に意識を向け続けるはずが、突発のハプニングに世の中的な方へと意識がとられてしまっていました。

ペトロがイエス様から目を離した時に溺れた御言葉を思い出します。

祝祭の日でなかったら、不安な考えのところにサタンがつけこみ、その後も不安や心配が増大していたに違いありません。

私にはまだまだ、不安に陥りやすい考えが残っているという事です。

火自体は見当たらず、周りの人の話を聞いていると、どうやら路地裏の店からの通報だったようです。

その他、まだ自分の中にある罪の考えや、不安になる考えが残っている事が諸々の場面で現れました。異性に気を取られてる事、食べ物を選ぶ事に悩み時間を費やしすぎる。主のために食べるというより自分の食欲を満たすために食べる方向に傾くなど、サタンにつけ込まれずとも、自分にはそのような罪が残っていると、その度、神様が見せて知らせて下さったように感じました。

地元に帰ってきてバスを降りたら、外が霧がかっていました。

明け方からケムトレイルが撒かれたであろうけども、この日は雨が少ししか降りませんでした。

この事について考えていたら、霧が出たていたので空気が冷えて、空気中の水分が水蒸気の粒となって空気中に放出された。と考えが繋がりました。

ケムトレイルも大気の温度が冷えてしまうと、うまく粒子に水滴がつかずに(結露せずに)、雨雲になる前に地面に降ってきてしまうと考えられます。

大気が冷えてケムトレイルによる雨雲が出来ないように、神様がはからって下さった可能性がある事を強く感じました。

祝祭の日を振り返り、まだまだズレた所が多いと反省する事があります。

神様と聖霊様と御子との出会いを記念し、感謝し、絶えず賛美することこら、旅行して食事する日事に意識が流れがちだとも感じました。

来年はもっと構想を練ってより真心を込めて計画して、祝祭の日を過ごせるようにしたいという感動があります。

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