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人間の身体は、文化芸術を行う前提で作られている。

人間の身体が、機械的に物を動かすために出来ているとしたら、工学的に見ると、明らかに過剰な設計になっているようです。

手で何かを持ったとしても、その持っているものの位置を変えることなく、意志を持って動かすことのできる関節が残っています。

例えば、バットを構える姿勢をとる場合、肘の向きを変えて調節する可動域が残っています。

 出典 ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか 工学に立ちはだかる「究極の力学構造」 (ブルーバックス)

これにより野球選手はより良いスイングを求めて、肘の位置をいろいろと調整することが出来るようです。

お母さんが赤ちゃんを抱くときも、赤ちゃんの首を支えたまま、肘を赤ちゃんの身体に沿わせてしっかりと抱くことができるのは、人間が産業用ロボットアームより一つ多く関節の自由度を持っているからだと言われています。

このような自由度が残っていることで、より良いプラスアルファの部分を追求することが出来ますし、動きに表情を持たせたり、表現の幅を増やすことも出来ます。また、滑らかな動きでコミュニーケーションをとることも出来ます。

大まかにですが人間の身体を見ると、人間の身体は、ロボットのように産業を行うためだけに作られているのではなく、生活の中で文化的・芸術的な活動が行えるようにに作られているのが見て取れます。

決して単純労働をするためにあるのではありません。

 

今は人間を模したヒューマノイドロボットが開発されています。

一昔前は、明らかにロボットというのが一目瞭然のものが出回っていましたが、技術が進んでいけば、より人間に似たような動きをするロボットが現れる可能性もあります。

SF映画と同じ視点で見ると、ターミネーターのようにロボットが人間を上回り、ロボットに支配されるようになってしまうという恐怖や不安が出てきたりするかも知れません、またそういった不安の根を中々取り除けないということもあるかも知れません。

しかし,RAPTさんは、人間は神様にかたどって作られており、人間は全知全能の神様から知恵や能力を受け取ることができる存在だと、仰られています。

人間の身体を作り、自然界を作り、科学の法則など、全てを作り治めている神様から知恵を受けることが出来るなら、SF映画のように、人間がロボットに全てを奪われるということはなく、さらには、人間がもっと文化的・芸術的な生活を送ることが出来るようになるために、ロボットを社会の役割に使うことが出来る可能性もあります。

 

神様にかたどって作られた人間は、神様のことを思い、神様を愛することが出来るように作られているとRAPTさんは教えてくださっています。(その生き方を実践され、私たちにその成果を見せてくださっています。)

そして、ロボットには、この思いはなく、神様の愛し神様を思う文化芸術は、ロボットには行えないと教えてくださっています。

RAPTさんが神様から霊感構想を受けて解かれたRAPT理論によって、イルミナティの嘘に騙されることなく生きる方法を知ることが出来、私達は大きな恩恵を受けられています。

RAPT理論は、RAPTさんが神様から霊感構想受けられて作られてた天の文化・芸術ですが、神様によってもたらされる文化芸術は人類に有益をもたらすものであることを実際に確認することが出来ます。

 

人間の心に響くようなコンテンツ(話、音楽、踊りなど)は少なくなっていると感じます。衝動的な欲求(物欲、食欲、性欲など)を煽るようなコンテンツばかりになり、そのようなものに溺れても人間の心は虚しいままでしょうし、それまでにイルミナティが作ってきたものの中にも、霊までを満たすものというのはありませんでした。

また、中国共産党の支配が進んだことで、さらに心に響かない表面的なコンテンツがかなり氾濫するようになっと考えられます。

一人でも多くの方が、文化芸術を行うことへの抵抗感をなくし、RAPT理論と御言葉に出会って、真実を蓄えた上で文化芸術を成していくきっかけになれたらと思います。

ご一読くださりありがとうございました。

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