
江戸時代は、衛生面、食生活ともに現代(21世紀)に比べると厳しい時代だった。
ネットを見ていると、時折こういう言説を見かけます。
「江戸時代の暮らしが豊かだった」「江戸時代は良い時代だった」というものです。
江戸時代の人々の暮らしが長閑で、心に余裕があったと言われることもあります。この点から江戸時代の方が暮らしが良かったという見方があります。
ただ生活面では厳しいと言える面がいくつもあり、現代2020年代に生きる日本人に比べて、江戸時代の暮らしは、平均寿命や衛生面ともに厳しい時代だったと言えます。
江戸時代が万能だったと手放しで賞賛するのは危ない面があるため、今回その反論申し上げる意味もあって記事を書かせて頂いています。
また、今回の記事を書いているうちに、幕末の困窮が、現代日本人の困窮に通じているところがあることがわかってきました。
Contents
・江戸時代の平均寿命
江戸時代の人たちの平均寿命は、50歳程度だったと言われています。
この平均寿命は、将軍達の平均寿命であり、一般庶民についてはそれより低かったと言われ、約30〜40歳だったと言われています。
織田信長は「敦盛」(あつもり)という舞が好きでした。特に、「人間五十年、化天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」という一節を好んで舞ったといわれています。
「人間五十年」とは、人の一生は50年ほどだという意味で、平家の時代から江戸時代には、平均寿命は50年と考えられていたようです。
これを根拠に、しばしば「江戸時代の平均寿命は50才くらいだった」と言われますが、現代用いられている人口統計の手法で計算すると、もっと短かったと考えられています。
当時の平均寿命は正確には計れない!?
江戸時代には現代のような戸籍制度がなく、生まれた子どもの数をきちんと把握する仕組みはありませんでした。
どこの家庭に何才の人が何人いるか、というようなことは大体わかっていたものの、「7才までは神の子」などとも言われており、幼児を数えない地域もありましたので、科学的な人口統計をするための基礎的データは残されていません。
そのため、平均寿命を正確に算出することは不可能で、さまざまな資料をもとに推定値が計算されています。
おおよそ30才~40才だった!?
多くの研究者が江戸時代の平均寿命について推論していますが、試算結果にはばらつきがあります。
30才というものも35才というものもありますし、中には50才という説もありますが、だいたい「30才~40才くらい」だったと考えられます。
短命なのは乳幼児の死亡率が高かったから
平均寿命というのは、新生児が何才まで生きられるかを統計学的に予想したものです。
仮に5人の子どもがいて、3人は0才で亡くなり、1人は50才、1人は100才で亡くなったとすると平均値=寿命は30才となります。
長生きする人がいても、乳児の死亡率が高いと平均は低くなります。
江戸時代には医療技術が十分でなかったこともあり、生まれて間もない子どもの死亡率がとても高く、そのため、理論上の「寿命」は短くなるのです。
極端な例ですが、江戸時代の12代将軍徳川家慶には男女合わせて27人の子どもがいましたが、20才まで生きられたのは家定1人のみでした。
また、家慶の父親である11代将軍家斉の子は50人いて、半数が20才までに亡くなっています。
将軍たちの平均は51才!?
江戸時代の将軍は全部で15人ですが、その享年の平均は51才です。
初代 家康75才、2代 秀忠54才、3代 家光48才、4代 家綱40 才、5代綱吉64才、6代 家宣51才、7代 家継8才、8代 吉宗68才、9代 家重51才、10代 家治50才、11代 家斉69才、12代 家慶61才、13代 家定35才、14代 家茂21才、15代 慶喜77才です。
栄養状態は庶民に比べて良かったと思われます。比較的長生きの人が多いようです。
江戸時代というと江戸を中心に考えられますが、地方になってくると、上記よりも平均寿命が低かったと残されています。
平均寿命が低くなる主な理由に、乳幼児の死亡率の高さが関係していました。
http://www.edojidai.info/heikinnjyumyou.html
ちなみに最後に2024年の日本人の平均寿命は以下のようになっています。
厚生労働省:平均寿命(2024年)が男性81.09年、女性87.14年に!3年ぶりに延びる
・江戸時代の衛生状態
江戸では、上下水道の整備がきちんとされており、屎尿を汲み取り式にするなどして下水に流さないなど都市内での取り決めも行われており、公衆衛生が守られていたことが伺えます。
どの地域でも江戸のような水準の公衆衛生が整っていたかというと、そうではないようです。
地域によっては衛生状態が悪かったと言われています。
1878年(明治11年)に日本を訪れたイギリス人旅行家イザベラバードが執筆した「日本紀行」によると、地方には衛生状態の悪い村があり、どこも衛生状態が良かったわけではないことが記述されています。
明治時代に入ってから衛生状態が悪くなったのかということも考えようによってはありますが、衛生状態の悪さが、江戸時代の乳幼児の死亡率の高さと関係していたので、やはり地方の衛生状態まで江戸と同じように良かったとは考えにくいです。
乳幼児の死亡率が高かった原因に、急性伝染病があったと言われるのがその理由の一つになります。
生き延びることが過酷な時代
先ほどの須田氏による研究で人々の死因を見ると、常に1、2位を占めているのは「虫」などと記された小児病、次が疱瘡、赤痢、腸チフスなどの急性伝染病でした。
https://日本の歴史.com/2019/02/寿命/
これらにかかったのも大半は乳幼児です。
幼い子供たちの大量死亡こそ、江戸時代の農民の平均寿命を28歳に押し下げていた原因です。
82歳の寿命の人がいる中で、平均寿命が28歳。
この数字のギャップが、いかに過酷な時代だったかを表しているのです。
「疱瘡(ほうそう)」とは「天然痘」の旧名のようです。
「天然痘」が流行る原因に、’不衛生な環境’、また、’食生活の偏り’ があると言われています。
「天然痘根絶の本当の原因は?」
— 續池均(kintsuzuike)@MTR Method Lab®︎ (@kintsuzuike) August 13, 2022
・水回りの整備など不衛生な環境の改善
・栄養状態を改善したことで健康状態が良くなった
つまり、生活水準の向上が天然痘を根絶したのだ。それをワクチンの手柄にすり替えたやつらは、その後150年以上に渡り製薬利権で暴利を貪り、人々の健康を害してきた😎🔥 https://t.co/2f2v3wsKpg
一説には江戸時代の食生活は豊かだったと言われることもありますが、天然痘で亡くなる乳幼児が多かったことから、現代に比べて栄養バランスは偏っていたと考えられます。
江戸に住む下級武士や町人は、地方に比べて食べ物に困ることは少なかったと考えられるわけですが、白米以外のものをあまり食べない習慣があったそうです。
白米ばかりを食べることでB1不足の状態となり、脚気が流行していた言われています。
偏った食生活が、体の不調を引き起こすので、満遍なく栄養の取れる食事の方が健康的と言えます。
・冷暖房器具などが未発達
現代日本ではエアコンがどの家にも設置されていると言っても過言ではありません。
当時、囲炉裏や掘り炬燵があり、暖房器具が普及していたそうですが、近くで当っていなければその効果は薄く、様々な文化活動を行えるような効果はなかったと考えられます。
真夏日や真冬日でなければ、換気などの工夫で凌げることはありますが。
セッティングに手間や時間がかかり、現代のスイッチで起動し、様々な調整が効く機能のついた家電と違い、扱いも一苦労です。
経験として、こうした苦労をしてみることは良いかもしれませんが、現代の文明から江戸時代の冷暖房器具を使って毎日を過ごすとなると、それによって煩いが増える人も少なくないだろうと個人的には思います。
また、江戸の気候は現代より寒冷だったようです。
https://edo-g.com/blog/2016/02/heater.html
そのため、現代の冷暖房器具が発達した日本は恵まれており、文化活動をする上には有難い環境にあると言えます。
・人身売買
買い取られる少女たちへの慰めの言葉は「白いおまんま」
>女衒(ぜげん)というのは女の子を買い取る商人のことです。全国の貧しい農家を訪ねて美人の娘を買い取るのが仕事です。
10才にもならない子どもを連れて行くのですが、その際に少女をなだめるために使われた常套句は、「白いまんまが毎日お腹いっぱい食べられるようになるよ」というものだったそうです。
農家の子どもたちにとって、白米を食べられる生活は「夢」のようなものだったのでしょう。
江戸の下級武士や町人たちは、白米以外のものをあまりとっていませんでした。
そのため栄養が偏り、脚気(かっけ)が流行したそうです。当時は、白米ばかり食べることでビタミンB1不足の状態になり、脚気になることは知られていませんでしたので、江戸の奇病として恐れられていました。
ただ、江戸生活で脚気になった人が、田舎生活をすると何故かすぐに治ることは知られていたようです。
その原因が白米にあることは、だいぶ後になるまでわかりませんでした。
http://www.edojidai.info/syokuji.html
引用記事に、「女衒(げぜん)」という人身売買が行われていたことが書かれています。
女衒として買われた子は、売春婦として働かされていました。当然、売春婦として娘が買われることを心から喜ぶ親はいないでしょう。
このような娼婦スカウト業が正当化されているのは、理想的な社会とは言えません。
・人柱という生贄儀式
日本では、人柱という儀式殺人が行われていました。
人智が発展した江戸時代では生贄儀式の風習は廃れていったと言われています。
はっきりと文献に残っているケースはあまりないみたいですが、江戸時代に入ってからも人柱が行われていたという伝承は各地にあり、その伝承にまつわる供養塔や祠が建てられています。
「人柱伝説は実話?」 じつはこんな事例があるのです
これぞ「実例」と思われるのが、日出城(ひじじょう/大分県)の人柱です。昭和30年代。南西海沿いの遊歩道工事中、大岩を乗せて石垣基盤としていた岩盤の穴から、老武士らしき遺体が納められた木棺が発見されました。この城は、櫓や本丸石垣の鬼門隅部を欠いて、鬼門除けにしています(第56回【武士でも鬼は怖かった!? 城に設置された〝鬼門除け〟の工夫とは?】参照)。この南西石垣は、地盤が弱い上に裏鬼門にあたるため、石垣の隅を欠き、さらに人柱も立てられたのでは、と考えられています。老武士……これはドラマがありそうです。祠と説明板が立っているので、探訪時はぜひ合掌を。
人柱の痕跡が発見された日出城の南西石垣(左)。遺体が見つかった岩盤の上には、老武士を祀る「人柱祠」(右)が建てられている
https://shirobito.jp/article/1429
こちらの日出城(ひじじょう)は、木下延俊によって1602年に築城が開始されたお城と言われています。
日出城の別名は「暘谷城」とも呼ばれ、これは「淮南子」という中国の学者からとった名だそうです。
また、木下延俊は、天下普請が発令された際に、江戸城の外堀にあたる虎ノ門の石垣工事を担当したようです。
日出城の別名である「暘谷城」という名称は、中国の「淮南子」からとった名で、木下延俊は漢籍などにも精通しており、また茶人としても知られるため教養があったようである。
また、江戸城の天下普請では虎ノ門の石垣工事を担当するなど、合計3回と自ら現地で積極的に指揮した。
https://sirotabi.com/12750/
富士川を渡る1000人目が「人柱」に
画像 : 護所神社の人柱供養塔 wiki c Sablier de Verrie
工事開始から50年余りが経過し、その間、何度も積み上げた土手が増水によって流されるのを見て、村人たちには絶望感が広がっていました。
そこで、村人たちは「富士川を渡る1,000人目に人柱を依頼しよう」と申し合わせたのです。
ちょうど1,000人目に当たったのは、東国巡礼に来た男女2人で、男性は備前生まれの道丁という名の人物でした。
村人たちが2人に事情を説明すると、ややあって2人ともそれに応じたのです。ただし「東国三十三番礼所の巡礼を果たした後にしてほしい」というので、村人たちはこれに応じました。
そして約4か月後、2人は約束通り戻ってきたのです。
道丁は「女巡礼のことをくれぐれも頼む」と言い残し、穴の中に入っていきました。
そこは堤防の突端の最も崩れやすい箇所であり、内部には四尺四方の木枠が設けられていました。
道丁が中に入ると、村人たちは蓋をかぶせて土を盛り、空気抜きの竹を一本突き刺しました。また、内部にはわずかな水を入れてやりました。
画像 : イメージ
道丁は息のある限り鉦(かね)を叩き続け、念仏を唱え続けましたが、50日ほどして音がやみました。
村人たちはその上部に小さな祠を建て、それを「護所神社」と呼ぶようになったのです。
こうした苦心の末、村人たちも協力的になり、工事がはかどっていきました。幸いにも工事期間中に大きな災害はなく、3年後の1674年に本格的な堤防が完成しました。
父子三代にわたる53年の努力の末に完成した堤防は、地域の耕地開拓に大きく寄与しました。
堤防完成後、開拓が着々と進み、1723年には収穫高が6,509石に達し、「加島五千石」と称えられるまでになったのです。
画像 : 雁堤人柱護所神社 public domain
https://kusanomido.com/study/history/japan/edo/91723/
もう一つご紹介します。
丸岡城の人柱事件とその詳細
江戸時代の1660年代に起きた「丸岡城の人柱事件」は、人柱伝説の中でも特に有名だ。丸岡城は1576年に柴田勝豊によって築かれたが、その後の改修で城壁が度々崩落し、工事が難航した。『越前口碑集』によると、地元の有力者が「神の怒りを鎮めるには人柱が必要」と判断し、貧しい農家の娘「お静」が選ばれた。彼女は生きたまま城壁の基礎に埋められ、その後崩落が収まったとされる。お静は「夫が戦から戻るまで待ってほしい」と懇願したが聞き入れられず、埋められた後も「夫を待つ」との声が聞こえたとの伝説が残る。地元では、彼女の霊が今も城周辺で泣いていると囁かれ、夜の城下で異音を聞いたとの証言が後世まで続いている。
https://日本都市伝説.com/?uragawa=hitobashira-legend-human-sacrifice#google_vignette
江戸城の伏見櫓から16体の人骨が見つかった事件があり、学者がそれを揉み消すような動きを見せていたことがありました。
----------------(以下、こちらから転載)
https://rapt-neo.com/?p=30499
■江戸城伏見櫓(最上の画像)の人柱
(註 :「人柱」とは生贄にされた人間のことを意味します。詳しくは後ほど)
かつての江戸城伏見櫓(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康が伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、1923年(大正12年)に発生した大正関東地震(関東大震災)で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されたこともあり大騒ぎになった。
伝説を信じれば、1603年~1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたことになる。
江戸城研究家たちの間では、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることや、伏見櫓を解体修理した結果伏見からの移築物ではないことが明らかであることが分かっているため、人柱説には否定的である。
徳川家康の慶長期築城以前に、城内にあった寺院の墓地の人骨であろうとされており、『落穂集』などの史料には、慶長期築城以前には、複数の寺院が城内にあり、慶長期築城の時に全て移転させられたことが明確だからである(鈴木理生・黒田涼・井上宗和らの説)。
一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美は宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。
喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。
----------------(転載ここまで)
先ず、「人柱(ひとばしら)」が何なのかを簡単にご説明します。
「人柱」とは、人身御供の一種で、「橋」「堤防」「城」などを建築する際、災害や敵襲によって破壊されないことを神に願うために、人間を生かしたまま土中に埋めたり水中に沈めたりする風習のことを言います。
で、このような風習は、昨日の記事にも出てきた「秦の始皇帝」もやっていたことですし、現代においてはダライ・ラマもやっていたことが分かっています。ダライ・ラマについては以下のリンクをご覧下さい。
○「チベット仏教」なる悪魔教を国教とするブータンが世界一幸福な国であるという大嘘。
で、この上の転載記事に書かれてある通り、「徳川家康」もまた同じように江戸城を建設する際に「人柱」を埋めていたことが分かったわけです。
しかしながら、この事実を必死で否定しようとする学者が何人も現れたため、まさか「徳川家康」がそんなバカなことをするわけがないという話になり、結局、今では江戸城の敷地から「人柱」が発見されたという話すら完全に揉み消しにされてしまっています。
少なくとも、私はこんな事実があったことを今の今まで全く知りませんでした。
恐らく私だけではなく、多くの日本人がこの事実を知らずにいることでしょう。だからこそ、今でも多くの人たちが「徳川家康」ファンになり、「日光東照宮」にお参りに行っているわけです。まあ、見事なまでの情報コントロールですね。
しかし、はっきりと言いますが、「徳川家康」は毎日のように戦争を行い、毎日のように人を殺していたような人物なのです。
そんな人物からしてみれば、十六人の人間を生き埋めにすることぐらい訳もないことだったはずです。良心の呵責を感じることもなかったでしょう。
まして、「人柱」を埋めることで自分が栄え、江戸が栄えると信じていたなら、喜んでそのような行為に突っ走ったに違いありません。彼らの頭の構造は我々のそれとは全く異なっているのです。
実際、以下のような記事も見付けました。
生贄儀式が江戸時代以降なくなったわけではなく、その後も支配者によって続けられてきたことがRAPT理論を通して暴かれています。
その歴史も根深く、一般人も巻き込まれるものでした。そしてそれが現代まで続いているからこそ現代人にとっても関係のある話と言えます。
https://rapt-plusalpha.com/?s=生け贄
・幕末と現代日本
江戸時代にあった問題も解決に向かっていたものがあったのかもしれませんが、江戸時代が進む中、生活に困窮した武士の中には身分を売る人も出ていました。
江戸末期に、武士から身分を買った人々の中には、伊藤博文や近藤勇、渋沢栄一など有名な人物たちがいました。
戸幕末期にお金で武士身分を獲得する相場が存在した背景を考える
近藤勇については明治元年に処刑されたと言われていますが、伊藤博文や渋沢栄一など、明治維新後に有名になった人物が含まれています。
次のURLに戦国末期から江戸幕末までの諸物価の推移がまとめられているが、例えば天保元年(1830)から慶応元年(1865)の35年間の間に、米価は2倍程度上昇したが、酒は4倍程度、砂糖は3倍程度、卵は5倍程度、木綿は10倍程度、木炭は6倍程度と生活必需品の価格が米よりもかなり高くなっていたことがわかる。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J078.htm【菊池寛】
菊池寛は武士の窮乏の原因についてこう解説している。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-528.html
「それは一言で言うならば、米の経済の破綻なのである。すでに相当に高い程度に発達した貨幣経済の当時にあって、武士は相変わらず領主からその俸禄を米で支給され、これを貨幣に替えてその生活を維持しているわけである。しかも、米はその本質上価額が不定であり、他の物価が高くなる割には、高くならない。その差が全部武家経済の台所を脅かすにいたるのは当然である。
封建社会の中堅ともいうべき武士が、こんな困窮の中に段々と追い込まれるとすれば、その社会が早晩大きな変革を要求するであろうことは、誰の目にも明らかなわけである。」(同上書 p.32)
これを見ると、物価高騰の中、賃金上昇が追いつかず、生活が困窮している現代の日本人と通じるところがあります。
現代の日本では、中国共産党の手先となった人物たちが日本の地位ある座につき、日本を乗っていることが暴かれています。
増税や物価高騰など、今日本で起きている変革が、放っておいても日本人にとって良い変革になると感じられることはないでしょう。
危機感が増える中、日本人一人一人がこの時代の変化に飲まれないように対策を取ることが必要です。