鉄道と産廃業者と被差別部落の関連性。
日本の農地を通ると、鉄板で囲われた作業所や、青いトタン板が張られた建物を見かけることがあります。
それらの多くには、葛の葉が生い茂っていたり、どちらかと言うと近寄りがたい雰囲気を醸し出しています。(もちろん、中には整理されている作業所もあります。)
こういった作業所は何なのかと思い、調べてみると、産廃業者、車の解体屋、鉄くずリサイクル業者や、残土受け入れ業者などであったりします。
少し郊外に行くと、幹線道路から外れたところに農道があります。
これらの農道には、駐車禁止の看板が立っておらず、よくタクシーの運転手さんや、トラックの運転手さんが、休憩がてら路駐をしている事があります。
そして、こういった農道に、先ほどの産廃業者や解体業者、残土受け入れ業者が点在している場合が多いのです。
最近は、こういった農道のすぐ近くまで住宅街が迫っている事も多いです。宅地開発が進んできた影響だと思います。
私は子供の頃から地図を見るのが好きで、よく地図を見てきたのですが、近年はGoogle Mapが普及した事で、地図が写真になり、しかもストリートビュー機能で実際に現場で撮られた写真を見られるので、より具体的に地図に載っている場所が、どんな場所なのかが把握できるようになりました。
そしてGoogle Mapを元に、これら産廃業者の作業所などを見ていると、ある法則性に気づきます。
産廃業者や解体業者などは、川沿いに多く点在している事が多いのです。(因みに、住宅街から一本隔てた、山林や谷間にある場合もあります。)
神奈川県を例に見ていくと、鶴見川、相模川、境川の沿岸部によく見かけます。
ただ上流から下流までくまなく全てに産廃場、解体屋、残土受け入れ屋などがあると言う訳でもなく、これらにもある法則性があります。
産廃場などが点在している場所は、昔はそんなに拓けた地域ではなかった場所が多いです。そういった場所は、明治時代に鉄道が敷かれるまでは、今のように住宅街が広がっていたような場所です。
具体的な地域ですが、ざっくり分けると、鶴見川なら都筑区や青葉区の中流あたり、相模川なら海老名以北、境川なら藤沢より北になります。
そして上記のエリアには、鉄道の支線が通っています、鶴見川沿いなら横浜市営地下鉄のグリーンライン、境川に並行してるのが小田急江ノ島線、相模川に並行しているのがJR相模線になります。
JR相模線は支線ではないよ、と言われそうですが、役割としては支線です。JR相模線は直接、都心には繋がっていません。
またJR相模線は、元はと言えば相模鉄道(通称:相鉄)の路線で、砂利輸送を目的として開業した路線でした。
JR相模線のように川沿いを通る鉄道の中には、砂利を運ぶために敷かれた鉄道が多いです。他にJR南武線があり、こちらも多摩川の砂利を運ぶ’砂利鉄道’として使われていました。
川沿いに走っていなくても、砂利鉄道の役割として使われたものがあります。川の前まで来て砂利を積み、その砂利を都市部まで運ぶような輸送ルートです。多摩川の砂利輸送だけでも、東急玉川線、東急目黒線、京王相模原線、国鉄下河原線(現在は廃線)などです。
ところで、鉄道が無かった時代ではどうだったかと言うと、やはり砂利採取と運搬の仕事はあったようです。その輸送手段には、主に川舟が使われていました。
川舟で運ばれてきた砂利は岸で荷揚げされ、それらの荷揚げを生業としている人達がいました。そして、その荷揚げに従事している人達の多くは、被差別部落の人達が多かったそうです。
ーー以下 被差別部落の話:被差別部落と川 よりーー
トラックや鉄道などが無かった時代には、
船は大切な輸送手段でした。
川を使い街から街へ荷物を運ぶ。
荷揚げの人夫や大八車や馬力での輸送など、
運輸の役を担ったのも部落の先人たちでした。
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このように江戸時代には、被差別部落の人たちが川沿いで砂利採取の仕事に当たっていました。
明治時代になって、鉄道が出来ましたが、この人達は失業してしまったのでしょうか?
鉄道が通ったら、そのまま鉄道関連の運送業にあたり、鉄道関連の土木をやっていたと考えられます。
明治維新後はいわゆるそれまで被差別と言われた人たちが権力を持つようになった、という背景があります。
被差別の人たちの中には「穢多」と呼ばれる人たちがいました。
そして明治維新を実行した長州藩には「田布施一族」がいました。この田布施一族は、いわゆる穢多出身の人たちでした。
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江戸時代に穢多だった人達が実権を握るようになれば、その穢多の人達が住んでいた地域にも仕事のつてが回るようになり恩恵が降ると考えられます。
そしてまず、鉄道という形で、その恩恵が降ったと考えられます。
明治時代に鉄道専門官僚となった井上勝は長州藩士で、イギリスに留学して鉄道技術などを体系的に学んだ日本人に、長州ファイブと呼ばれる人達がいました。(老川慶喜著 日本鉄道史 幕末・明治編)
日本で初めて鉄道を管轄する工部省の設置を中心的に行ったのも伊藤博文と山尾庸三で、二人とも長州藩の出です。
このように日本での鉄道敷設には、長州藩が深く関わっていたという歴史があります。
長州藩は、江戸時代に穢多だった人たちが関わっていました。
そのため鉄道関連の仕事が、彼らの同胞である穢多だった人達に回ってくる可能性は大いにあり得ます。
但し、船仕事をやっているのが全て穢多の人達だったかというと、そうでも無さそうです。
例えば、江戸時代に利根川河口の山王堂村の船着場の人たちがおり、船着問屋の石川家の元で働いていました。石川家は社会活動家・石川三四郎の生家でもあるそうです。江戸時代この山王堂村の人々は、船着問屋の石川家が持つ幕府の特権で船着き場の仕事についていました。しかし明治以降彼らが失業したというケースもあります。(老川慶喜著 日本鉄道史 幕末・明治編)
港町としてある程度出来上がっていた銚子は、やはり穢多と呼ばれる人達ではなく、幕府に属する船乗りがそれに連なる仕事についていたと考えられます。
そのため幕府を倒した明治政府側とは敵対関係が続き、ある種、迫害の的になっていたと考えらえます。
このような場面を見ると、日本には派閥のぶつかり合いがあったことが伺えます。
(日本の派閥について詳しくはこちら)
時代の流れを見ていくと、運送の主力は、人力から鉄道輸送へ、そしてモータリゼーションとともにトラックへと変わって行きました。
モータリゼーションによって鉄道貨物は減り、鉄道の多くは旅客鉄道に変わって行き、砂利鉄道だった路線の多くも旅客鉄道へと変わって行きました。
都市圏で旅客鉄道が出来ると、今度はそこに住宅開発の誘致が進む傾向があります。そして宅地開発に伴う、産廃業や運送業、土木業の仕事も発生します。
そのため、時代が変わり、住宅街が増えて来た川沿い地域などに、これらの作業所が残っていると考えられます。
ただ、これらの事が市民の暮らしにいい結果を招いているかというと、必ずしもそうとは考えられません。
産廃業者はヤクザとの関わりが多く指摘されており、現にヤクザと産廃業者に関連したニュースはネット上のあちこちで見かけます。(例えばこちらやこちら)
もちろん産廃業者の方全員がそうとは思えません。中には真面目に働いている産廃業者の方もいらっしゃるはずです。
また産廃業者による不法投棄も問題になっています。
私も、川の橋の下に粗大ゴミがたくさんあるのを見かけたことがあります。
政府とヤクザが結託していては、これら不法に手を染める産廃業者が摘発されにくいというのも現状です。
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ただ、そんな悪さも、明るみに出れば、堂々としにくくなるはずです。